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『大瀧詠一』(おおたきえいいち)は、1972年11月25日に発売された大滝詠一通算1作目のスタジオ・アルバム。 == 解説 == はっぴいえんどのセカンド・アルバム『風街ろまん』〔はっぴいえんど『風街ろまん』 1971年11月20日発売 URC LP:URG-4009〕の原盤供給を制作元のアート音楽出版(URCレコード)から受けたいとの意向を、キングレコードのディレクター三浦光紀は持っていたが、はっぴいえんどはどうしてもURC側が譲れないとなり、そこで「ソロならばキングから出してもいい」と新たなアイディアが持ち出され、その最初として大瀧のソロ・アルバム制作が決まった〔当時、キングレコード制作部の教養課に所属していたディレクターの三浦光紀は「大瀧さんにソロをやらないかと声をかけたのは、はっぴいえんどが『風街ろまん』を録っている最中でしたね。レコーディングが終わったらすぐに制作に入りました。その頃すでにはっぴいえんどが解散するんじゃないかというのは、漠然と思っていたんです。ただ当然、彼らは各々がソロでもやっていける人たちだと思っていました。当時のはっぴいえんどは、求道者的でストイックなバンドだったんですね。日本語のロック論争なんかがあって、そうせざるを得ない部分もあった。だから、あまりノリの軽いものはできなかったんです。そういう意味では、アメリカン・ポップスから日本の歌謡曲まで造詣が深かった大瀧さんは、バンドとはまったく違うアプローチができて、ポップスという意味ではとても質の高いものが作れると思ったので、ますは大瀧さん、次が細野さん、その次が茂さんという感じで、僕の中では順番を決めていたんですよ」(Bellwood 40th Anniversary Collection『大瀧詠一』収載“大瀧詠一『大瀧詠一』について 三浦光紀(談)”(高塚浩一))とコメントしている。〕。 大瀧は、“アルバム”という呼び名はもともとSP盤を束ねる入れ物がアルバムみたいに見えたから付けられたという話を仕入れた時から、自分が作るならシングル盤6枚をリリースしたらそれらを集めてアルバムしたいと話していた。そしてソロ・デビュー・シングル「恋の汽車ポッポ」〔「恋の汽車ポッポ」 1971年12月10日発売 KING EP:BS-1465〕がリリースされた。2枚目のシングル「空飛ぶくじら」〔「空飛ぶくじら」 1972年5月25日発売 Bellwood ⁄ KING EP:OF-3〕のリリース直前、三浦ディレクターがキング制作部教養課から独立して“ベルウッド”を設立、大瀧はソロを継続する意味合いからベルウッドに参加することになった。その結果、1枚目はURC原盤、2枚目からベルウッド原盤という変則的な形で、「空飛ぶくじら」〔はベルウッドの3枚目のシングルとしてリリースされた〔三浦は出版をPMPに預け、大瀧はここで朝妻一郎と初めて会うことになった。〕。 その後諸々の事情により“シングル6枚構想”は“ソロ・アルバム構想”に変更され、大瀧は2枚のシングルはとりあえず習作と考え、1972年4月から新たにアルバム制作が開始された〔1981年のアルバム『A LONG VACATION』も、当初はシングル盤6枚+絵本という構想だった。〕。もともとこのアルバムのタイトルは“乗合馬車”の意味で『オムニバス』となる予定だったが、シングル6枚構想が崩れた時点で『オムニバス』というアルバム・タイトルも消滅し、そこで考えられたのが自身の原点であるエルヴィス・プレスリーのデビュー・アルバムのタイトルだった。『ELVIS PRESLEY』〔ELVIS PRESLEY『ELVIS PRESLEY』 Released in March 23, 1956 on RCA Victor LP:LPM 1254〕というシンプルなものだったことから、このファースト・アルバムも名前だけの『大瀧詠一』となった。ただし、アーティスト名と区別するため、一般には『ファースト』と呼ばれている。 アルバムのデザインは“WORKSHOP MU!!”が手がけているが、奥村靫正によればジャケットおよび、レコード・レーベルのイラストは立川か横田のガレージセールのようなところで見つけたシアーズの1950年代のカタログのイラストレーションをアレンジしたものだという〔1997年のシングル「幸せな結末」でも、同じイラストが使われた。〕。また、野上眞宏は狭山に行ってからの“MU!!”を象徴しているのは本作だと言い、「アメリカン・ポップの路線が大瀧君のサウンドにばっちりマッチしたんだよね。あれが出たとき、みんなびっくりしたよね」「はっぴいの人たちも、大瀧君のファーストのアメリカン・ポップな感じがすごく気に入って、それで3枚目〔はっぴいえんど『HAPPY END』 1973年2月25日発売 Bellwood ⁄ KING LP:OFL-8〕を“MU!!”に頼むことになったんだと思う」という。さらに自身が撮影したジャケット裏の大瀧のポートレートについては「矢吹申彦が当時音楽雑誌でジャケット・デザインの批評とか書いていて、いつも洋楽のジャケットしかとりあげないのに“写真がよい”とか書いてくれて嬉しかった記憶がある」〔野上眞宏写真集『HAPPY II SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1970-1973』2002年12月10日初版発行(ブルース・インターアクションズ) pp.206-212 “Dialogue between Yukimasa Okumura and Mike Nogami 奥村靫正×野上眞宏”〕と振り返っている。アルバム中袋にはこのアルバムを支えた人たちの写真と、ハーモニカを手に持った2歳ぐらいの時の大瀧自身の写真が付けられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大瀧詠一 (アルバム)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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